2025.3.11. 火曜日
3月11日だね。くもり空だ。
荷造り作業を鋭意。いつもお買い上げありがとうございます。
生きてる時間が長くなってくると、記憶は曖昧になってくる。特に時間の感覚。あれは何年前の出来事だったのか。新幹線に乗って旅行へ行ったのは何年だったか。あの本を買ったのは何年前だったのか。あの映画を見たのは何年前だったか。・・・まあ、そういうことくらいなら忘れてしまっても構わないんだろうけどね。
そんな中で忘れようと思っても忘れられない日付ってのはいくつかある。3月11日はそういう日だと思う。わざわざ口には出さないけれど。
あの日から何年経つ、ってのは自分のすごしてきた時間に当てる一つのモノサシになっている。子どもたちの年齢は身近でサッと自分の感覚と実際の時間を比等できる基準だったけど、子育て期間が過ぎて二人が独立してしまうともう曖昧になってしまった。今はまた孫ちゃんの年齢が新しい基準になりつつある。
気がつけば両親の年齢が上がっていて不調を訴えることが増えてきた。そういう意味ではまた別の基準が生まれそうだ。
・・・とりとめのないはなし。
昼飯を挟んで午後一番に荷物を出しに行ってきた。そのまま日枝神社へお参り。店に戻って本の整理を続けた。
仕事をしながら、アマプラでスピルバーグ監督「マイノリティ・リポート」を流していた。2002年公開。原作はフィリップ・K・ディックで1956年発表。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の作者だ。この方はなんだか自分が描く未来世界にいつも脅かされているんじゃないだろか。こんな世界になってほしくないけど、どうせこんなふうになってしまうんでしょ?って思っていそう。原作はショートストーリーらしいので、未来に起きる犯罪が予知できる社会になったらどうなるか、の恐怖について短く描かれていただけなんだろう。この映画はそこからグッと世界観を広げている(はず)。「犯罪予知システム」にリアリティを与えるためあれこれと設定を考えて「未来社会」に組み込ませた。
人の「網膜」が識別のために活用されている社会。通りのあらゆる場所にセンサーが設置されて網膜を読み取られる。クルマは自動運転らしい。警察は空を飛んでやってくる。そんな社会でも各人はスマホを持っておらず、無線での連絡はあったとしてもネットのWifiが存在しないかもしれない。地下鉄で通勤している人はまだ新聞を広げていた。主人公のアンダートンが仕事を終えて帰ってきた自宅で一人息子の姿を動画再生するのになんらかの記憶媒体カートリッジを使っている。
1950年代に考えられたレトロフューチャーにはインターネットがない。この映画は何回か見たことがあるので、ストーリー展開よりもこういう未来描写に興味が行く。
5081歩 3.0km 194kcal 14.8g
